2007年06月07日

母恋い つづき



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いつも大好きな和服を、きりりと着て、

大きな手提げ鞄には、これでもかと重たいパンフレットを詰め込み、

背筋を伸ばしてでかけていく姿は晴れやかで

持ち場の本郷弥生町から春日町近辺を

くるくると飛び回っていました。



「お母さんね、この詩が大好きなの」

それは今もリバイバルで流されている、谷川俊太郎氏の詩。

「愛する人のために」

みなさんも一度は聞かれたことがあるかと思います。

ズタズタな企業倫理の保険料の不払い問題が、

これほど大きな社会問題となった今となっては、

ただ虚しく、いかがわしく、空々しくしか聞こえなくなってしまった

この詩ですが

母はこの詩をほんとうに宝物のように

大事にかかえて歩いていました。

当時10代後半だった私でさえ、

こんなのきれいごとだよ。。と思っていたこの詩を

本気で実践しようとしていた母が、

なんだかとても可愛らしく思えました。

そして同僚も、もっと効率よくやらなくちゃまいっちゃうよ、

と陰口していたようです。


でも、しだいに母の非効率的な一生懸命が通じたのか、

お客さんからの口コミで契約もどんどんいただけるようになり

めきめきと実績をあげていきました。

ただ、そうなればなるほど苦しくなるのが母のアナログなやりかた。

お客さんのためにと奔走し日曜出勤もめずらしくありません。

母にとって家庭は何なのか。

家族と一緒の時間はどうしてくれるのだと、

いつしか母の代わりに、

父と祖母との仲をとりつくろうのは私の役目となっており

それも辛かったりして

「お母さんは、仕事に逃げているだけじゃないか」と

私もずいぶん母を責めてしまったことがありました。

でも家族のために働かざるをえなかった母とすれば、

誠心誠意飛び回るしかできなかったのです。



そんな数年が続いたある年、

母のからだはもうぼろぼろになっていました。

それなのに、白血病にむしばまれていた母のことに

家族も、病院も誰も気づけなかったのです。

亡くなる3週間前の母の日、だるそうに椅子にもたれている母に

桜色のマニキュアを塗ってあげました。

いっぽんいっぽんの指が今までの母の人生のようで

元気になってほしい一心で、丁寧にゆっくりとしあげました。

「こんないい母の日はないなぁ」 と嬉しそうな母の笑顔を見て

ふだんマニキュアなどつけなかった母の指先が、

ポッと桜色になったのを見て

なんだかこれで元気なってくれるかもしれない、

そんな気がしました。

それから月末の忙しさにまぎれ、母は仕事をこなし

忘れもしない亡くなるちょうど一週間前の夜

「今日はとっても気分がいいの、一緒にお風呂はいろっか」

と、珍しいことを言い出しました。

その日の母の白い背や肩を

今でも昨日のように思いだすことができます。

そして月があけた6月。やっと病院に向かった母は

たった4日入院しただけで、帰らぬ人となりました。

私が21歳の時でした。

誰もが母のからだがそんな状態だったと気づかず

母自身も気づいていなかったのか、

じきに予定されていた社内旅行を楽しみにしたまま

とうとう別れの言葉は何一つ交わすことができないまま、

いってしまいました。



葬儀は見知らぬ人たちであふれかえっていました。

母のお客さま、仕事の上司、後輩、同僚。

みんなが大事な母や姉や妹をなくしたように悲しんでいました。

その時に、

母が今までしてきたことがやっと見えてきた気がしました。


そしてこのあと、十数年、ずっと繰り返されてきた父と祖母の諍いが

不思議なことになくなっていったのです。

家族みんなが母に甘えてばかりだったことにやっと気づきました。

祖母が最期に父に感謝し、甘えて亡くなったことは、

皮肉にも母の死を持ってもたらされたものでした。

生まれたその日から、

ずっと誰かのために生きてきたような母だった気がします。



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posted by ゆる子 at 07:48| ゆる子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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